今回の旅はミラノから始まった。
ここにはどうしても見たい1枚の絵があった。
「最後の晩餐」
あまりにも有名なレオナルド・ダ・ビンチの作品。
ミラノに到着後、空港からB&Bへ到着、ここでアクシデント発生。
何とB&Bのドアに鍵がかかっていて開かないのだ。
B&Bはベッド・アンド・ブレックファーストの略でベッドと朝食は用意するから、後はよろしくと言うスタイルで、安く気軽に泊まれる。
しかしインターネットで予約を入れていたはずなのに、行って見ると誰もいない。
携帯から電話もかけてみたが、アンサリングマーシーン(それもイタリア語)が出るだけで、全く返答がない。
既に日が落ちて、さすがにこのままミラノで野宿はまずいと思い、あわてて近所のホテルを探して飛び込んだ。
なんとか部屋を確保したので、早速夕食に出かけた。
ミラノの街中での食事はお洒落な人が多く、さすがにファッションの街。
次は朝からミラノ観光として路面電車や地下鉄を駆使して行動、まずはもちろんドォーモ(大聖堂)へ向かう。
ここへはホテルから路面電車一本でやって来れた。
世界的に有名なこの大聖堂はテレビや雑誌で何度も紹介され、充分知ってはいたつもりでも,実際に前に立って建物を眺めてみると全く新しい感動に包まれる。
500年の歳月をかけた世界最大のゴシック建設、また最後はナポレオンが完成させた等、話題には事欠かないが実際にこの建造物を前にすると、そういうものはあくまでも情報でしかなく、建物自体から受ける感動とは全く別物である。まさしく百聞は一見に如かずとしか言いようが無い。
とにかく圧倒的なスケールで見るものの心を揺さぶる。
当然多くの職人たちの技術の結晶でもあるわけで、それぞれの職人が力の限り丁寧に仕事をした後、この大きな作品が完成するわけで、自分の仕事がやがて一つの大きな塊として完成するのだ、私のように画家であると個人での作業が多く出来上がった作品もそれが一つの完成として展示される、共同作業に依り大きな作品を作るという事はある意味うらやましい事でもある。
ミラノの街中は路面電車、バス、地下鉄と便利な公共交通機関がそろっていて便利に移動できる。
面白い事にイタリアでは購入したチケットの使用開始の時間を自動検札機で刻印をしないと車掌に見つかると罰金をとられることになっているらしい。
車掌が必ず調べにくるわけではないが、罰金が恐いので乗り物に乗る前に皆きちんと刻印をしてもらっている。
このイタリアのシステムだと、ほぼ全員の乗車客を管理する事となるが日本式であれば当然全乗客を管理できることになる。
ほぼ全員と、もれなく全員というこの2つの違いはやはり国民性に由来しているのだろうか。
この後、ブレラ美術館を訪れた、ここはマリア・テレジアの時代から美術収集が始まりナポレオンが美術館として開館、今に続いているようである。
ヨーロッパの美術館でいつも驚くのはその作品量である、ここにもやはりものすごい量の作品が収蔵されていて、丁寧に見ていくとすばらしい作品が足す良い収蔵されている。
私が興味が有るのはその時代時代の2番手にいた画家たちの作品である。まあ私なりの位置づけだが一番手というのが教科書に載っているような作家たちで、2番手というのは教科書には出てこないが、その時代それなりの知名度を持ち活躍していた作家たちである。考えてみて欲しいのだが教科書は小学校から高校まで一般教養として美術も学ぶが現実的に見て100人程度の作家しか紹介できない訳であるから、当然最も有名な画家や美術運動の中で大切な働きをしたような作家たちしか紹介できない。
例えばこの美術館ならGiulio Aristide Sartorioグリオ・アリスティデ・サルトリオ1860年−1932年という画家、年齢的に見て後期印象派からアールヌーボーの時代に当る。しかし、後期印象派にしろアールヌーボーにしろそれは美術史の中に置ける新しい美術運動の名前であり、画家たちはその中で自分たちが明確にどこへ所属していると言う事を考えながら仕事をしていたわけではない、あくまでも後世の美術史家に依って区分けされた結果の事である。
特にこの時代の新しい絵画の動きは北ヨーロッパでおこなわれていたわけで、イタリアなどではルネッサンスからバロック、そして写実主義の流れを組むスタイルは面々と続いていくのである。
その中にいたであろうこのグリオ・アリスティデ・サルトリオなどの作家は確かに教科書には乗ってはいないが大変すばらしい作品を残していったわけである。他にも感動を覚えたのが風景画のLeonardo Bazzaro や風俗画のAlessandro Milesi等、やはり良い絵を描く画家は世界中にいくらでも居る。
この後滞在予定してるベニスの風景もたくさん有り、100年ほど前のイタリアの風景を見ることができて感慨に浸ることができた。
またこの美術館には美術大学も並立されていて、中を見学させてもらったが、トイレの前の壁にいきなりものすごい大きさのライオンのレリーフが有ったり、これもおそらく数百年は建っているであろうが、その中で勉強できる事は確かにすばらしい環境であった。
他もいくつかのぞかせてもらったが、若い画学生たちが建物にあふれ私は元気をもらって来た。
次の日は予約を入れていた「最後の晩餐」の見学、
大事な作品では有るし、レオナルドの残された作品の中では最大のもでは有るが、修復はされているもののやはり痛みが激しく,その作品の持つ価値はすばらしいものだが、実際に見た人は「なるほどね」と言う程度の感想しか持てない。
まあ、画家としては見ておきたい作品の一つではあるが、数ヶ月前から予約を入れて、前室で湿度を調節した後にやっと見れるというほどのものかどうかはちょっと疑問ではある。
しかしだからといって、この作品の歴史的価値が薄れるものでもなく、時間の許す限りゆっくりと鑑賞させてもらった。
この湖はイタリア北部の避暑地として昔から大変有名でシーザーも避暑地として訪れていたという記録もある。
そして18世紀以降、各国の王侯貴族が別荘を建て、それが今では観光名所として多くの観光客が訪れ、ハリウッドスターも多くがここに別荘を持っている。
ミラノから車で向かうことにしていたが、制限速度130kmのアウトストラーダから高級別荘地の立ち並ぶ、コモ湖の回りのワインディングロードを走るのにふさわしい車をレンタルするという事で車種を探してみたが、たまたま頭をよぎった「フェラーリ」と言う言葉が頭から離れず、ネットで検索してみるとフェラーリのレンタルを見つけることができた。
車種は、スーツケースを乗せれてオープンカーに出来るという事でカリフォルニアに決定。
レンタル当日はホテルまで真っ赤なCaliforniaが届いた。
これで、ミラノの路面電車の石畳を抜けてアウトストラーダへ、制限速度は130kmなので、一応その速度を守っていると、横を小型車に何台も抜かれていく、ついて行って見ると皆ほとんど150km辺りで運転していた。
正直、運転は大変なのかなと危惧していたが、何のことはない全くのAT車でとにかく運転は楽、拍子抜けしたほどだった。
ただし、駐車する時はやはりその幅の広さでなかなか難しく、汗をかいた。
コモ湖の畔に立つVilla Belvedereについて、湖畔の街アルジェーニョ(Argegno)を散策、ミラノの後はこういう何でもない田舎の街が気持ち良い、少し歩いた後、早めの夕食を広場の前にあるRistrante La Piazzettaで済ませた。
日の暮れたアルジェーニョの中心の広場は近所の人たちがやって来て、思い思いにビールやワイン、それにジェラートを食べたりとにぎわっていた。
朝窓を開けて湖を眺めて居ると対岸からフェリーがやって来た、コモ湖の中は何カ所もフェリーで結ばれていていろんな街へ行けるようだ。
ホテルで朝食をとっていると、イギリスからやって来たという家族のご主人に、俺はフェラーリのモデナを持ってるんだと話しかけられた、やはりこういう事では男同士、共通の話題となる。
ここで予定していたBellagio(ベッラージオ)へいく為、アルジェーニョからフェラーリで北へ上がったが日曜だったためこの湖畔の道はイタリアのバイカーたちで一杯、途中名前もわからない街でスケッチ、いくつかVillaを訪れ、Cadenabbiaから車ごとフェリーに乗り込みBellagioへ向かった。
Bellagioも、観光客で一杯、やはり駐車場で10分ほど待った後、なんとか停めれたが駐車料金の払い方がわからない、回りの人に聞いてみるがあまり英語のわかる人がいない、ボディランゲージで何となく理解、どうも自動でお金を入れる前払いだと判明、3時間ばかりの金額を入れてレシートを車のダッシュボードへ置いて完了。
駐車場から出た所で、ちょうど湖畔の街が見渡せる場所が有り、ここでちょっとスケッチを済ませた。
その後は中心地へ、街自体はそんなに大きいわけではないが、湖畔から後ろの裏山へ一気に上がる地形のため急斜面に街が出来ている、景色はいいが、上下するのは大変だった。
少し上がった所で、大変良い感じのレストランLa Fontana(ラ・フォンタナ)で昼食をとった。
しかしここが本当に美味しい店でランチメニューに有ったムール貝のスープを夢中で食べてしまった。今回の旅行ではトップに入れて良いくらいの店だった。
イタリアに来てから、店に依って時々妙に塩辛い食事が出される事が有り、何度かがっかりさせられたが、こういう店に出会うと旅が一気に楽しくなる。
食後店の横の道をさらに上に上がってみたが、細い道の向うに見える湖と山並みが大変きれいでさわやかだった。
ここでも何枚かスケッチを試みた。しかし、どこから見ても「美しい」、このベッラージオ自体が斜面に張り付いて建造されているため街のどこからも、コモ湖が見え、その向うには雪を冠ったスイスの山々が見える。
ちょうど日曜だったため、観光客が大変多く、バイクや車で来たイタリア人の数が多いが中にはアメリカの高校生だと思われる団体も道ばたにあるベンチ等に腰掛け、ピザを頬張っていた。
とても気持ちのいい日曜の午後を味わわせてもらった。
せっかくイタリアなので、ホテルやB&Bも良いけれど、レンタカーで移動しているので車でしか行けないような、田舎の雰囲気のあるVilla(ヴィッラ)ー別荘ーに泊まれないものかとネットで探した所、ミラノから約2時間ポー川の畔にたつAntica Corte Pallavicina Relais(アンティカ コルテ パラヴィチーナ ルレ)に泊まることにした。
高速道路から下りてかなり走るのだが、正直ナビが無ければとてもたどり着けない、しかし、その間の景色も、北イタリアの田園風景がすばらしく、時々走り抜ける田舎の街々もそれぞれに風情が有ってすばらしい。
なんとか日の暮れる前に到着したのだがいきなり牛舎が目の前に有り、ここがホテルかと目を疑った、その後ぐるっと敷地を回って玄関は右手に大きく回った所に有る事が判明、表から見る建物は前にハーブのガーデンを構え大変趣のあるヴィッラを見ることができた。
しかし地図で見るとこの建物の前の道がすぐに行き止まっており後で衛星写真で確認した所正面はポー川から引き込まれた運河に面して建っている事が判明した。
過去にはこのヴィッラへのアクセスは川からおこなわれていた名残だろう。このポー川はミラノからアドリア海まで続く長い川で交通の要だった事は用意に理解できた。
ここはあの生ハムで有名なパロマからすぐの場所に有り当然、自家製の生ハムはもちろん、チーズやオリーブオイルを作っていて、ここで出される夕食はそれらを主体にした、北部イタリア牧草地帯の肉を中心としたすばらしいものだった。これは帰って来て気づいたのだがこのレストランはミシュランの星を獲得していた。道理でウエイトレスのサービスもすばらしいものだった。食事は料理に応じてそれぞれ最もふさわしいワインをグラスで頂くというコースで違う年代物の生ハムから始まり、
食事の途中で、シェフのMassimo Spigaroli(マッシモ・スピガローリ)が各テーブルを回ってくれるのだが、あまり英語は出来ないようで、やはりイタリアの旅はある程度イタリア語をしゃべれればずっと奥深いものになると思う。
とはいえイタリア語は勉強したいが、英語も完璧ではないのにまた新しい言語の習得となるとちょっと頭が痛い、それより、現地の人たちに英語を習得してもらえるように期待をしていた方が良いような気がする。
しかし、ミラノから2時間、パロマから1時間はかかるこのレストラン、宿泊以外ではなかなか来る事ができないのだが、そういう所にあるレストランでもミシュランで星を獲る事の出来る食に対するどん欲な姿勢に心を打たれた。
ロミオとジュリエットで有名なこの街は大変な観光地でもあり、中心地には高級ブティックが並ぶ。
また街中にはローマ時代のすばらしい競技場が残されていて、状態はローマのコロッセオより良く今でも様々な催し物がおこなわれている。
特に夏期に公演されるオペラは有名らしい。
しかし、2000年前に建てられた建造物が今でも使われてるという事はすばらしい、やはり石による建造物は長く残りそれがヨーロッパ旅行を本当に楽しいものにしてくれる。
シェークスピアの「ロミオとジュリエット」だが、シェクスピア自身はヴェローナを訪れてもなく、この街を舞台にもう一つ「ベローナの二紳士」と言う作品も書いている。
書いているとはいえ、彼は脚本家であるから舞台劇の為に作品を書いているし、「ロミオとジュリエット」元になる別の作品が存在しているようである。さらに最近ではシェークスピア自身の作家としての活動にも疑問を持って再検証されているという話しも聞いた。日本でも歴史の再考はいつも行われており、新しい発見のもと歴史が塗り替えられたりするのだが、それもまた楽しい。
まあ、そういう風にあやふやな情報の上に成り立ったこのヴェローナの「ロミオとジュリエット」人気だが、いま一応公開されている「ジュリエットの家」は大変な観光名所でそこを元に映画まで作られている。
ここで泊まった宿はネットで探したB&B、イタリア人の家族の経営する、要するに民宿である。
ネットで探した時はかなり田舎だなと思いつつ、いってみると本当に田舎の何でも無い住宅街にあった。
ついて予約の事を伝えると英語をしゃべれる人がいなくて、まあ、とにかく部屋に入っていてくれと荷物をほどいていると若奥さんがかえってきたらしくなんとか英語が通じた。
やはりさすがに田舎ではどこでも英語が通じる訳ではない。
しかし、他の滞在者と一緒に夕食をさせていただき、大変楽しい旅の思い出となった。
ラヴェンナ
相当昔から交通の要所として栄えた港町だが、その理由も地図で見るとすぐにわかる。
イタリアの東側は、日本で言う日本海側に当る訳で、日本でも最近の遺跡や歴史研究で明らかになって来たように、日本海側の交易は相当盛だった事が証明されて来ている。
歴史の中心となって、普通に学校で勉強出来る範囲は限られているが、ほんの少し横道にそれてみると、そこにも本流に負けないほどの厚く、深い歴史が有る。
このラベンナは過去において何度か大国の首都となっていたが、交易路からそれてしまい、その後はほとんど発展もなく今に至る。
有名な「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」と言う世界遺産が有る街で、これは5世紀から6世にかけて建設された。
いくつかの教会を訪れてみたが、残されたモザイク画がすばらしい。
セザンヌやクリムトも訪れこれらのモザイクを見たらしい。
実際、クリムトの後期の作品には金を多用したものが多く、それもまるでモザイク画のように配置してある。
ここラベンナのモザイク画とクリムトの有名な「アデレ・ブロック=バウアーの肖像」を比べてみると、明らかに影響を受けたと言える作風である。同時に彼は日本美術からも影響を受けたとも言われている。
当時も今も、文化は人間同士が影響し合い生まれてくるものだという事を再確認した。
ほ乳類としての人間(ホモサピエンス)というもの自体は、おそらく数万年前から全く変わってないはずだ、つまりはその頃の子供に今と同じ教育を施せば、現代人と同じ教養を身につける事ができる、と言う事は、現代の私たちと言うのは過去から延々と続く経験を教育という形で受け続け、それをいつも次の世代に受け継いで来た結果、現代人の生活が成り立つということになる。
逆に言うと、過去からの積み重ねが無くなればそれは現代の知識や技術がすべて失われてしまうことになる。
美術においても全く同じで、先人たちの生み出してくれた技術や考え方が有り、その上に今の私たちの芸術感が存在する。
「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」にもどるが、私たち芸術家は実に原始的な材料や道具を使って作品を作りだしていく。
ラヴェンナの教会のモザイクは最も身近に有る「石」と言う素材を小さなかけらに割って、壁に埋め込むというごくとても原始的な手法で作られ、1500年経ったもまだ残っている。
私たち芸術家は、いまだに最も古い手法で作品を制作する事がおおい。
私が使う油絵の具はほとんどが石を砕いたものに油を混ぜて作る、中には金属粉等を酸化させる事等により色を作り出すものもある。
つまりは使っている材料は全く同じようなものでありながら、使う技術や芸術感が変化している、その中で各個人の芸術家が何をすべきなのか、あるいは私自信が何をしたいのか?
こういう疑問はつきる事が無い、何となく一つの解答を見つけたかと思って進んでみると又新しい疑問が出て来て闇の中でさまようことになる。ここラベンナで少なくとも、そういう事を再認識することができた。
ちなみにここで泊まった宿はM Club De Luxe B&Bというところで、ラヴェンナ散策にも良いし、レンタカーも止めることができる、大変使いやすい宿だった。
小ベニスと呼ばれている場所で今のように観光客でごった返す前のベニスの姿がここにあるという。 確かに車で街の中心地まで行けるし、港町の風景も昔のままで、何より観光客が少ないところが素晴らしい、またここからベニスにフェリーも出ている。次回はここに宿をとってゆっくり滞在するのもいいところだと思った。
今回はどうしても、対岸から列車でベニスへ入りたかったのでわざわざレンタカーを対岸の街で返して、駅まで行き、列車で海を越えてサンタルチか???駅へ到着。
駅から出るととにかくものすごい数の観光客で驚いた、観光シーズンにはまだ早いと思われる4月に行ったのだが、既にとんでもない人たちでバッグを抱えて移動する事が本当に大変。ホテルに入り落ち着いたところで、早速街を歩いてみたが、やはりヴェニスの魅力は独特のもである。
これだけ年月が経っていても、これだけ観光客であふれていても、ベニスの魅力は変わらない、今回は特にアル•パチーノ主演の「ヴェニスの商人」を見ていったので期待も大きく十分楽しめた。
話はそれるがこのアル•パチーノ主演の「ヴェニスの商人」は台詞はシェイクスピアの脚本に忠実に従っているという事で、確かにやたら芝居がかっていて、それをよくこれほどうまく映画に仕上げたと思うが、一つだけ、ユダヤ人がキリスト教徒から迫害を受けた事を強く意識されるような映像構成にしているところが気になる。
おそらくシェイクスピアはここまで強く人種差別を全面に押し出してくるようなストーリーにはしたくなかったのではないか、おそらくは多少の悲劇もありながら人間の滑稽さを笑いにした娯楽劇を書いたのだと思う。
この映画の様に民族、人種間の対立を前面に描かれてしまうとシェイクスピアの意図したものとは別の仕上がりになってしまわないだろうか?
横道にそれるのはこれくらいにして、今回のベニスは観光客の少なめの場所を選びたかったのでサンマルコ広場から北へあがった場所を宿とした。着いた後にわかったのだが、このすぐ北側からムラーノ経由で空港行きの水上バスが出ていて大変便利なところだった。
まずはそこからまっすぐにサンマルコ広場を目指す。
途中の小さなこみちが実におもむきのある風景だ。